■遂に「骨肉の争い(?)」は法廷闘争へ!
つまづきの始まりは1868年3月。最大の後ろ盾だったティッチボーン夫人が亡くなる。その後もロジャー(仮)は、自分が本物である証拠集めに南米に行くなど派手に活動していたが、それにカネを使い過ぎたのか2年後には再び破産状態に。そこで1871年5月、賃料収入だけで年間2万ポンドを越えるティッチボーン家の遺産を正式に継承するため、法廷闘争に打って出たのだ(注6)。
注6/形式上はティッチボーン家の土地を借りている人物に退去を求める裁判。これで正式な権利者として認めさせる狙いがあったとされる。
もちろん、ティッチボーン家側も黙っていない。この間集めてきた「ロジャー(仮)の正体」に関する情報を法廷に提出。これにより法廷で「ロジャーの真贋闘争」が繰り広げられ、さらに資産家で準男爵というセレブ一族のスキャンダルということもあり、メディアが一斉に食い付いた。
この骨肉の争い(正確には偽者なので「骨肉かどうかを決める争い」w)は、ロジャー(仮)を悲劇のヒーローとする大衆の支持と、ゴシップ好きの方々の人気を得て、イギリス中を熱狂させる騒動になった。それは、裁判の過程で、ロジャー(仮)の”とんでもない正体”が暴かれても変わりなかった──。
■ロジャーを名乗る男の正体とは?
先に、ロジャー(仮)はオーストラリア・ワガワガで精肉店を営んでいたトーマス・カストロと紹介したが、裁判ではその名前もまた偽名だったことが判明した。実際には、ロンドンの下町・イーストエンド(注7)の港湾施設が立ち並ぶワッピングという街で、1834年、精肉店主の息子として生まれたアーサー・オートンなる人物だという。
注7/ロンドン塔の東、テムズ川の北側あたりで、「切り裂きジャック事件」の舞台として有名なホワイト・チャペルはロジャー(仮)の生れた街の目と鼻の先。
なかなか気性の荒い港町で育ったアーサー・オートンは、二十歳頃に船員としてチリに渡り、その後、タスマニアを経てオーストラリアに上陸したという。当初は農場で働いていたようだが、カネで揉めて出奔。オーストラリア各地を放浪した。そして、その後は「家畜泥棒のギャング団に所属していた」「犯罪行為(一説には殺人も)に関わっていた」など、きな臭い経歴が語られている。
で、当局の追及をかわすため、トーマス・カストロの偽名を使い、ワガワガの街で勝手知ったる精肉業を始めて定住。同地で妊娠中の女性と結婚し、さらにもう一人の子供も設けたとされる。しかも、痛恨のミスは、ロジャー(仮)としてロンドンに戻ってきたのに、ワッピングのオートン家を訪ねていたことまで突き止められてしまったことだ(さらに、アーサー時代の元恋人も「こいつはアーサーです」と証言)。
■男爵になり損ねた男の末路とは……
約1年ほどの公判中に次々と不利な証拠や証言が続出し、1872年3月にロジャー(仮)は敗訴。それどころか偽証罪で逮捕され、刑務所に収監される羽目に……。
だが、ロジャー(仮)は諦めず、刑務所の中から無実を訴え裁判費用の支援を訴えた。彼の支持者たちも、なんと「ティッチボーン・ニュース・アンド・反抑圧ジャーナル(Tichbone News and Anti-Oppression Journal)」なる新聞などを創刊(!)。もはや「金持ち(支配階級)VS庶民」の社会運動のような盛り上がりとなった。
約1カ月で保釈されたロジャー(仮)は「反権力のヒーロー」として人気を集めたが、翌1973年4月に、今度は刑事裁判で告訴される。やはり1年近く審理が続き、結果、2件の偽証罪で有罪となり、なんと懲役14年という重い刑が言い渡された。
10年の服役の後、1884年に出所したロジャー(仮)だったが、世間の熱は冷め、演芸場やサーカスで講演して日銭を稼ぐ生活となった。その後、何度か「オレ、実はロジャーじゃなくてアーサーです」「いや、やっぱりロジャーです」と暴露記事で証言を二転三転させ、支持者もほとんど去ることに。
暴露記事のギャラを元手にたばこ店を始めたり、いくつか事業を行うもすべてうまくいかず、最期は極貧の中で亡くなったロジャー(仮)ことアーサー・オートン。しかし、「あのロジャー(仮)死す!」と注目が再び集まり、葬儀には5000人以上が参列。そして、墓碑銘には「サー・ロジャー・ティッチボーン」の名が刻まれることになった。