■興奮した様子でAさんが語る内容は──
その後、Aさんとしばらく連絡を取らず、すっかり忘れていた頃、久しぶりに連絡があった。こちらが挨拶する間もなく、Aさんは興奮した様子で話し始めた。
「聞いてください。あのボス妻、旦那さんが不倫して揉めた挙句、今は離婚調停中らしいですよ」
こちらに構わず勢いよく話し始めるAさんに戸惑う私をよそに、Aさんはさらに続けた。
「しかも、旦那さんがタイ人の夜のお店に通っていて、そこからタイ人女性との不倫が発覚したんです。それも、どうして発覚したかというと、店が未成年を雇っていたことで摘発されたんですよ。もう、この噂はコンドミニアム内で大騒ぎになっているらしいですよ……!」
ボス妻の醜聞を話すだけ話すと突然、”ブツン!”と電話は切れた。あまりのことにアタマが追い付かず、電話が切れた後もしばらく私はその場に立ち尽くしていた。
■ボス妻以外にも罵詈雑言を書き連ねるように
……Aさんって、あんな感じの人だったっけ? だって、私はそのコンドミニアムに住んでいたこともないし、ましてやボス妻がどんな人物なのかもよく知らない。正直、私にとってはどうでもいい話だ。
Aさんもそれはよくわかっているはずなのに、捲し立てるだけ捲し立て一方的に電話を切る。それに、私の中でのAさんは大人しい印象だったのに、電話口の喋り方はまるで別人のようだった。ただ、その時はまだ、
(ちょっと、様子がおかしかったな……)
ぐらいにしか考えていなかった。だが、Aさんの奇行はさらにエスカレートしていった。
〈聞いて下さいよ。あのボス妻、結局離婚することになったそうですよ〉
〈あのボス妻、離婚して日本に帰るって話ですよ!!〉
〈しかも、あのボス妻、SNSでタイに住んでいることをマウント取りまくっていたらしく、日本に帰っても居場所がないって噂ですよ〉
毎日のようにボス妻に関する、異様なほど詳しい「追加情報」がメッセージがAさんから届くようになったのだ。しかも、まるで密着取材しているかのような生々しさだった。それに彼女からの鬼のようなメッセージの嵐は、これだけでは済まなかった。
〈カワノさん、このアカウント知っています?〉
〈この人、タイでは結構、有名な駐妻で在住者としょっちゅう遊んでいるらしいですよ〉
〈こういう人がいるから、駐妻のイメージが悪くなるんですよね……〉
などと、在タイ日本人のアカウントのスクリーンショットを上げて、攻撃的でかなり汚い言葉を連ねた長文メッセージまで送られてくるようになった。
■Aさんに発覚した「不可解な事実」
(……なんかAさん、ヤバくない?)
こちらの反応を気にする様子もなく次々と送られてくるメッセージに違和感を覚えた私は、Aさんを紹介してくれた人に連絡を取ってみることにした。
〈最近、Aさんから変なメッセージが届くようになったんだけれど、何か知ってます?〉
しばらくすると、返信があった。
〈来てる。でもあれって変じゃない? だって彼女、とっくに帰国しているはずだよね〉
そのメッセージを目にして「あっ!」と思い出した。そうだったのだ、Aさんは1年も前にタイを離れ、日本に帰国しているのだ。
帰国の原因はやはり、彼女がいつも苦情を漏らしていたボス妻の監視だった。キリがなく続く噂話や生活面を監視されることに耐えられず体調を崩してしまい、旦那さんを置いて一人で帰国していたのだ。
■「監視するボス妻」は本当に実在したのか?
……だとしたら、とっくに引っ越したはずのコンドミニアムやボス妻の情報をAさんはなぜ詳しく知っているのか。送られてくるメッセージはまるですぐそばで目撃していたような生々しさがあったのに……。
それに、そもそも監視していたのは本当に”ボス妻”だったのだろうか? それとも「ずっと監視されている」という話自体すべて、Aさんの妄想だとしたら……? そこまで考えが及んだ瞬間、私は背筋がゾワッと凍る思いがした。
それからしばらく、Aさんからメッセージが届くことがあった。しかも、回を重ねるごとに、コンドミニアム内の人間関係に関する異様に細かい詳細が報告されてくる。彼女が語る「ウチのコンドミニアム」というのは、本当にこの世に存在しているものなのだろうか……私は怖くてずっと返信できないままだ。
タイが好きな人にとって、タイで暮らすということは楽園のように思えるだろう。しかし、夫の仕事の都合で仕方なくタイに来た駐在員の妻の中には、まるで別人のように豹変してしまう人も少なくないのかもしれない。
Aさんの身に一体、何が起こっているのだろうか……。