モテモテの貴公子で絶大な人気

 

近衛文麿

若き日の文麿。確かに貴公子然とした見た目で、しかも弁舌爽やかな若手政治家として知られた。

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 そもそも文麿は、若手政治家として将来を嘱望されていた。何より、藤原摂関家の筆頭・近衛家の長男で、父・篤麿(あつまろ)も貴族院議長を経験した公爵。まさに生まれながらのエリートだ。

 

 そんな血筋の良さに加え、東京帝大(現・東大)から京都帝大(現・京大)に転学するという高学歴。さらに180センチ近い長身で容姿端麗、絵に描いたような「貴公子」で、国民からの人気も絶大だったという。

 

 国民人気だけでなく、私生活でもモテモテだった文麿。千代子夫人とは、彼女が学習院に通う電車の中で一目ぼれし、学生結婚したというロマンチックな逸話もある。

 

近衛文麿

珍しい笑顔の文麿。よく言えば「イケオジ」?

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 ただ、そんな恋愛結婚の一方で、京都帝大時代には祇園芸者の菊を愛人にしている。東京に戻る際には連れ帰り、自宅近くに妾宅を構えるほどの入れ込みようだった。さらに、当時「芸者歌手」として一世を風靡していた浅草芸者の市丸も愛人にし、関係は総理時代も続いたという。

 

 いわば、現役総理とトップアイドルが愛人関係だったわけで、今なら大炎上必至だ。しかも、前述の服毒自殺の直前まで、これまた別の愛人・山本ヌイと友人の家に潜伏していて、友人の妻から「最期はご本宅で」とたしなめられたとのエピソードも……。

 

■45歳で総理就任するも迷走!?

 

第一次近衛内閣

日中戦争が迫る中成立した第一次近衛内閣。右に陸軍大臣杉山元、左に海軍大臣米内光政、写真左端に元首相で後にA級戦犯となった広田弘毅の姿も。

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「愛人などいて当然」という時代の常識もあるが、むしろこうした奔放な女性関係すら文麿の人気を支えた。さらに政治家としても「新体制運動」など先進的な主張から、政界や軍部からの人気も高く、二・二六事件後には総理に推薦されている。

 

 この時は辞退したものの、結局、翌1937(昭和12)年6月に45歳と史上二番目の若さで総理大臣に就任。さっそく7月に起こった「盧溝橋(ろこうきょう)事件」を機に日中戦争の対応を迫られるのだが、この辺から文麿の迷走が始まる。

 

 事件不拡大を唱える一方で、三個師団という大兵力の派兵を発表するなど方針がブレブレ。陸軍参謀本部が提案した「蒋介石(しょうかいせき)との首脳会談」というウルトラCの和平工作を直前でキャンセルと優柔不断ぶりに批判が集まった。

 

 さらに、陸軍が密かに進める和平交渉を打ち切り、「国民党を対手にせず」「これ(国民政府)を抹殺せんとする」と声明を出し、強硬路線に舵を切った。

 

 しかし、「日中戦争は正義や人道にもとづく戦いだ」という演説はレコード化されるほどの人気。一般大衆はこうした文麿の強硬姿勢に喝采を送ったのだ。

 

■強気の姿勢は本心だったのか?

 

昭和天皇

若き日の昭和天皇。当時から文麿の「弱点」を見抜いていた?

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 こうした文麿の動きから「近衛文麿はポピュリスト(大衆迎合主義)政治家」と批判する声もある。実際、近くで近衛を見てきた昭和天皇も、

 

「思想は平和的だったが、あまりに人気を気にして決断できなかった」

「憎まれるのがいやで、誰にでも担がれてしまった」

 

 と、大衆人気や周りの声に迎合してしまう文麿の“弱点”を証言している。ただし、そんな性格であればこそ、「国民を大戦に巻き込んだ」というより、文麿もまたポピュリズムや大衆の熱狂に巻き込まれ、戦争への道へ突き進んだという見方もできるだろう。

 

 いずれにせよ、ポピュリスト気質のある政治家の台頭と国家の失敗という構図は、SNSの声に政治家が右往左往する現代も他人事ではないと言えそうだ。

 

【参考資料】
『近衛文麿 人物叢書』古川隆久著(吉川弘文館)
『日中戦争への道 満蒙華北問題と衝突への分岐点』大杉一雄著(講談社)
『大政翼賛会への道 近衛新体制』伊藤隆著(講談社学術文庫)
『日独伊三国同盟 「根拠なき確信」と「無責任」の果てに』大木毅著(角川新書)
『軍国日本の興亡 日清戦争から日中戦争へ』猪木正道著(中公新書)
『総理の女』福田和也著(新潮新書)