群山(クンサン)──。僕が訪ねたのは2013年。当時、この街を訪ねる日本人は多くなかった。韓国の西海岸、黄海に近い全北特別自治道(旧・全羅北道)の街だ。黄海に面した韓国の海岸線を南北に辿るとちょうど中間あたり。全州(チョンジュ)の東側になる。もっとも最近は、日本人街としての観光地化が進み、ツアーなども催行されているようだ。僕が訪ねたのは、そんな整備が進む前だった。
当時、群山は列車では行きづらい街だった。観光地化が進んだいまも、列車でのアクセスはよくない。ソウルから南下し、長項(チャンハン)線に入ると群山駅がある。所要時間は約3時間半。しかしこの駅は群山市街からかなり離れている。駅から路線バスで向かうしかない。高速バスが便利だろうか。
かつては群山市内まで鉄道路線がのびていたがすでに廃線になっている。市街には線路の名残がかなりあるが。
しかし、もうそう多くはないと思うが、戦前の朝鮮を知っている人の間では、群山の評価はぐっとあがる。日本への物資の積み出し港として栄えたのだ。ソウルに近い仁川は国際港である。日本への交易を担った港は釜山である。しかし釜山は朝鮮半島の南端。そこまで物資を運ぶのは時間がかかったのだろうか。
そこで、錦江(クムガン)河口に広がる群山の港に半島の物資が集まるようになる。半島から日本への米の積み出し量は、群山港がいちばん多かったという。日本各地から商売人が集まってくる。そのなかには群山で一攫千金をもくろむ日本人も多かったのかもしれない。そしてこの街には日本人街がつくられていく。
以前に紹介した九龍浦は漁師たちがつくった日本の街である。そして仁川は日本の朝鮮支配の表の顔としての日本人街ができあがっていく。政治色が強い。その比較でいえば、群山は日本の商人たちがつくった日本人の街である。
調べると、群山の日本人街は東国寺という日本式の寺院の周りに広がっているようだった。戦争が終わり、日本が半島から引き揚げた後、日本の神社はそのほとんどがとり壊された。仏教寺院も同じような状況だったようだ。駐留したアメリカ軍にしたら、神社と仏教寺院が同じように見えていたのだろうか。1911年、朝鮮総督府は寺刹令を出している。朝鮮人を日本に同化させる目的があったといわれる。神社とは別の意味合いを仏教寺院にもたせていたようだ。
群山には本願寺、群山寺、安国寺、錦江禅寺があったという。すべてがアメリカ軍に接収されたが、なぜか錦江禅寺はとり壊されなかった。その寺を韓国人の僧が払い受け、東国寺という名前になったという。韓国では唯一の日本式仏教寺院といわれている。
東国寺はなかなかみつからなかった。地元の人も首を傾げることが多かった。街なかを探していると、黒い瓦屋根がかすかに見えた。あれだろうか。住宅街の坂をのぼると、日本式の寺が現れた。
立派な寺だった。境内には鐘楼まであった。本堂に入ることができた。そこで目にしたのは日本の寺ではなく、韓国の仏教様式の内部だった。日本式というのは外観だけだった。
韓国式だからか勝手が違う。本堂には誰もいなかった。