●「狙うは徳川幕府転覆!」渋沢たちが頼った“ある勢力”とは?,
では、実際の計画とはどんなものだったのか? 大河ドラマなどでは、「高崎城乗っ取りを計画したが、従兄弟の尾高長七郎に諫められ、涙を呑んで諦める」 といった感じであっさり描かれるが、前出の自伝『雨夜譚』を読むと、かなりとんでもない計画だったことがわかる。
具体的には、1863年(文久3)11月12日冬至の夜に同志69人と共に高崎城を襲撃。武器弾薬を奪取して鎌倉街道を一気に南下。一挙に横浜を焼き討ちして外国人を片っ端から斬殺する──というもの。
いろいろツッコミどころ満載で、後に渋沢自身も「今から見ると、まことに笑うべき話」「ずいぶん乱暴千万な話」と苦笑いしている。しかも装備は刀と槍(一部は竹槍!)、弓や鉄砲などの飛び道具は一つも無し。いくら「虫螻蛄同様」の幕府の役人どもが相手とはいえ、横浜に辿り着くどころか高崎城を落とすのも難しいところ。しかし、当時の渋沢たちは「手当たり次第に斬って斬って斬りまくる」(前出・雨夜譚より)と、大量虐殺をやる気満々。
●「どうせやるなら大量虐殺!」その真の狙いとは……
しかしなぜ、渋沢たちは外国人大量虐殺にこだわったのか? 前出の自伝の中で渋沢はこう語る。
「二人や三人で斬り込んだとこるで、生麦事件みてえに賠償金払っておしまいだんべ」(意訳)
いやいや、賠償金問題になるだけで大事なのだが、ここからが渋沢たちのテロ計画の恐るべき真の狙い。横浜襲撃は単なる発火点で、「幕府の保ち得られぬような一大異変」(前掲書)、つまり、諸外国の軍勢がテロの報復攻撃を行なって戦争状態になることを狙っていたのだ。その混乱の中、全国各地で攘夷志士が立ち上がり、弱り切った幕府を打ち倒すというもの。
だが考えてみれば、攘夷(外国人排斥)を唱えつつ、諸外国の軍事力頼みで幕府を弱らせようというのだから、そもそもがおかしな論理。乱暴千万どころかもう無茶苦茶。その無謀さをよく知っていたのが、江戸や京都の情勢に詳しかった渋沢の従兄弟、尾高長七郎(前出・淳忠の弟)だった。
この尾高長七郎が、決行の1カ月前になって計画の無謀さを必死で説いて、渋沢たちを思いとどまらせることに成功。「日本資本主義の父」どころか、危うく「幕末きっての農民テロリスト」となるところが、まさに首の皮一枚で繋がった渋沢は江戸~京都と逃亡の旅に出ることになる。