●職・住接近ならぬ、職・住・女接近? 自宅の目と鼻の先で芸者遊び?

 

 ところで、林家小亀こと鈴木かめが芸者をしていた「元吉原」、青春時代に渋沢が豪遊した吉原遊郭と勘違いしがちだが、こちらは現在の人形町にあった「芳(葭)町(よしちょう)」のこと。もともと江戸初期に吉原遊郭がこの地にあったため「元吉原」と言われ、明治のこの頃は東京を代表する六花街の一つとして賑わっていた。主な顧客は隣の蛎殻町(かきがらちょう)にあった米相場と兜町の株式相場の関係者だったという。

 そこで、当時の地図を見ていただきたいのだが、萬朝報にすっぱ抜かれた当時の渋沢の自宅が兜町二番地(現在の兜神社があるあたり)。小亀(鈴木かめ)と出会った芳町は日本橋川を挟んで目と鼻の先、さらにちょっと足を延ばせば小亀との愛の巣があった浜町三番地。

 渋沢が代表を務めていた第一国立銀行や東京証券取引所はもちろん自宅のそばだったので、半径500メートルほどの円内に自宅も仕事場も芸者遊びのホームグラウンドもあり、なんなら妻も二人の妾も暮らしていたというわけだ。若き日から合理主義の塊のようだった渋沢とはいえ、何もここまで効率化しなくてもいいと思うが……。

 さらに萬朝報の記事に面白い記述があった。

 小亀と同じ林家の芸者で「かめ子」こと塙かめ(23歳)を身請けしたのが、古河財閥の創始者・古河市兵衛。記事では足尾鉱毒事件に引っ掛け「鉱毒大臣」だの「有名なる蓄妾家」だの散々な書かれよう。この古河、実は渋沢が静岡にいた頃からの長い付き合いで、実業界における盟友の一人。その二人が同じ置屋の同じような源氏名を持つ芸者を揃って身請けしていた(しかも、古河とかめ子の愛の巣も浜町!)。仕事だけでなく、二人が悪所通いの遊び仲間だったことまで暴露されていたのだ。