■探検隊を襲う極寒と悲劇

ウランゲリ島キャンプでのエイダ

画像: ダートマス大学所蔵資料より

 そんな波乱含みながら調査は順調だった探検隊だが、ウランゲリ島に冬が訪れ状況は一変した──。

 

 猛烈なブリザードに布製のテントは耐え切れず、慌てて先住民をまねてイグルーを造って難をしのぐ。食糧調達にも出られず、マイナス40度まで低下する極寒のせいか、そもそも獲物の数が一気に減っていた。もともと不足気味だった食糧や備品は減る一方。流木頼みだった燃料もじりじり減っていった。頼みの綱は夏に島を訪れるはずの補給船だった。だが、その“頼みの綱”が現れることはなかった──。

 

 それにはウランゲリ島を巡る政治情勢の急変が関わっていた。1917年から革命の動乱が続いていたロシアでは、1921年末までにレーニン率いるボリシェビキ政権が国内外を圧倒。辺境のウランゲリ島についても「我がロシア(ソビエト連邦)の領土である」と正式に主張したのだ(注5)

注5/1917年に始まる、いわゆる「十月革命」から5年近い内戦を経て、1922年12月末、ソビエト連邦が成立。

 

 これにより、完全にカナダ政府からの支援は途絶。ステファンソンは金策に走ったが、資金や物資が集まった時には、再び酷寒の冬と分厚い流氷が島を覆い尽くしていた。こうして二度目の冬、探検隊壊滅の時が迫っていたのだ──。

 

■「ウランゲリ島探検隊」遂に壊滅!?

厳冬期のウランゲリ島には当時の船で近づくのは不可能だった

画像:Грагайтис В. А., Public domain, via Wikimedia Commons

 食糧はもちろん、獲物を狩るための弾薬も心もとなくなった1922年12月頃から、隊員たちは救助を求めるため海氷の上を犬ぞりでわたることを計画し始めた。だが、隊員のローン・ナイトが壊血病(注6)に罹り日に日に衰弱していたため、計画はズルズル先延ばしされた。

注6/大航海時代の船乗りから20世紀初頭の極地探検家まで多くの人々の命を奪ったビタミンC欠乏症のこと。体中から出血し、腐ることからこの名が付いた。

 

 結局、翌1923年1月28日、立ち上げることもできなくなったナイトとエイダを残し、クロフォード、マウラー、ゴールの3人が救助を求め出発した。計画ではおおよそ2カ月でシベリア側の集落に向い、救助を要請することになっていた……だが、3人は二度と戻ってくることはなかった

 

The Adventure of Wrangel Island

奇跡の生還後、ともにノームに戻った相棒の猫ヴィクとエイダ

画像:"The Adventure of Wrangel Island" by Vilhjalmur Stefansson, Public Domain

 病人のナイトを抱え、銃を持ったこともなかったエイダが独学で射撃を身に付け、伝統的なスキンボート(獣皮を使ったカヌー)も自作して狩りをし、時に現れるホッキョクグマを追い払った様子は彼女の残した日記に克明に記されている(注7)。だが、彼女が自分の分の食糧も与え懸命な看病をしたものの、約半年後の6月23日、ナイトが息を引き取り、遂に、北極圏に浮かぶ極寒の孤島でアイダは一人きりとなった(注8)

注7/エイダが当時記していた日記はダートマス大学のアーカイブに残っている

注8/正確にはノームから一緒に来た「探検猫ヴィック」ことヴィクトリアがいたので一人と一匹

 

 だが、彼女には絶対に生きて帰らなければならない理由があった。そう、愛する息子、ベネットをもう一度その腕で抱きしめるために。その一念が彼女の極限のサバイバル生活を支えたのだ──。

 

■奇跡の生還後、静かな余生を

 

 だが、酷寒のウランゲリ島に春が訪れ、海氷のバリケードが解けても救助は現れなかった。たった一人(と一匹)のサバイバル生活は少しづつ彼女の体を蝕み、アイダの体にも壊血病の兆候が表れていた。終わりの見えない生活の中、短い春が過ぎ、二度目の夏も過ぎかけた頃だった──。

 

 1923年8月20日早朝、エイダはテントの外に何かの気配を感じ目を覚ました。濃い霧の向こう、島の沖合に船影が見えたのだ! 船は次第に島に近づき、ボートで男たちが上陸してきた。海岸に駆け寄ったエイダは救助を求めに行った3人の姿を探したが、そこには誰一人おらず、彼らはステファンソンの第二次計画でウランゲリ島に来た探検隊だと名乗った(注8)。

注8/恐らくエイダたち第一次隊の生存を絶望視し、第二次隊を派遣したと考えられる。クソだなステファンソン!

 

アイダとベネット

奇跡の生還を遂げたエイダと息子・ベネットの消息を伝える当時の新聞

画像:A story on Blackjack and her son appeared in the Los Angeles Times in 1924. (East Carolina University)

 こうして、奇跡の生還を遂げたエイダはノームに送られ、愛息・ベネットと念願の再会を果たした。メディアは一斉に「ウランゲリ島の奇跡」「女版ロビンソン・クルーソー」などとエイダを持ち上げる一方、一部では彼女のサバイバル自体を疑い、中には「他の隊員たちを殺したのでは?」などと非難するものもあった。

 

 さらに酷いことに、約束されていた「月給50ドル×2年分」の給与は支払われることはなかった。しかも、ステファンソンは第一次隊の悲劇とエイダの奇跡の生還を元ネタに『ウランゲリ島の冒険』なる書籍を出版し大儲けしていたにもかかわらずだ。もちろん、アイダへの印税もゼロ。どう考えてもクソ中のクソだ。

 

 ただ、世界中に注目されたことで、篤志家から支援金が送られ、ベネットの結核は治療することができた。彼女自身はその後、病気や貧困に見舞われながらも、次男のビリーも授かり、つつましいながらも穏やかな余生を送り、1983年5月29日、その数奇な生涯を閉じた。

 

【参考資料】
『The adventure of Wrangel Island』Stefansson, Vilhjalmur, 1879-1962Knight, John IrvineKnight, Errol Lorne, d.1923
『The Disastrous Wrangel Island Expedition(Deadly Expedition)』by Katrina M.Philips,PhD./Illustrated by Dave Shephard
「Ada Blackjack: Stranded on Wrangel Island」(Bering Land Bridge National Preserve
「Stranded for two years on an Arctic island, this woman miraculously survived by shooting seals」Stephanie Buck(timeline.com 2017年8月29日記事
https://www.nps.gov/articles/000/ada-blackjack-stranded-on-wrangel-island.htm Wikimedia Commons
「1920年代アメリカ経済発展過程の特質」土生芳人/岡山大学経済学会雑誌19(2),1987