■「決戦兵器」だった風船爆弾

 

 登戸研究所が開発した「トンデモ兵器」として、もっとも有名なのは教科書にも載っている「風船爆弾」だろう。

 

「ふうせん」という言葉の響きからのんびりしたものをイメージしそうだが、戦争末期の帝国陸海軍は本気も本気。「世界戦争完遂ノ為ノ決戦兵器」の一つとして、大本営直轄の特殊作戦部隊「気球連隊」を設立。全国各地で動員された女子生徒などが極秘裏に大量生産していたほどだ。

 

 1941年12月、真珠湾攻撃に端を発する日米開戦で、登戸研究所は研究の軸足を対米戦略へと移す。B‐29のような長距離戦略爆撃機を持たない日本にとって、アメリカ本土の爆撃は不可能だったが、関東軍の技術将校だった近藤至誠少佐の起案で対ソ戦用兵器として研究されていた『ふ号兵器』の大型化が計画される。なお、ふ号の「ふ」は風船の「ふ」である。

 

■風船爆弾の恐るべきスペック

風船爆弾の雄姿。風船の名前から想像されるよりはるかに大きく、直径10メートルほどもある 画像:Wikipedia

 和紙をふのりで貼りつけた風船で米国本土を無人爆撃するという、前代未聞の作戦だが、風船の設計は案外とまとも。

 当時の資料(注1)によると風船は中に水素を詰めて防水加工されており、高度1万メートルで3日以内に米国まで到達する計算だった。ガスが抜けるなどで目的地の手前で高度が4000メートルまで下がると自爆する電気回路もつくられていた。

 

 当初はアメリカ本土近くまで艦艇で風船を運び、そこからの空爆が考えられていたそうだ。 しかし、戦況の悪化から、日本本土からアメリカ本土の空爆という、非常にスケールの大きな計画へと変更される。

 

  風船爆弾は9300発余りが発射され、アメリカにはうち285個が着弾、オレゴン州では不発弾の爆発によりピクニック中だった女性教師と児童5人が死亡という悲劇が起きている(しかも、女性教師は妊娠中だった……)。

 

 予算と戦果を考えると、あまりの効率の悪さに平時なら間違いなく却下される風船爆弾だが、現在、北朝鮮が韓国に落としている汚物満載の風船爆弾の元祖は登戸研究所にあると思うと複雑な気持ちになる。

 

 戦争と科学は両輪で進んでいくが、その途中では、平時では考えられないバカげた研究も多い。次回「軍事と科学の切っても切れない腐れ縁/中編」では、二大軍事大国、アメリカとロシア(旧ソ連)のトンデモない軍事研究を紹介していこう。

 

注1/『太平洋戦争時登戸研究所の秘密戦兵器開発に対して製紙業界が行った生産協力―企画展「紙と戦争」に因んで―』(明治大学平和教育登戸研究所資料館 館報第1号 2015年度3-38頁,2016年3月)