■90年代後半は今と何が違う?

 90年代末は記憶の中では地続きだが、ディテールを見ると、今とはずいぶん違う。

 韓国も日本も携帯電話を持っている人は珍しくなかったが、あくまでも電話でしかなかった。携帯電話がインターネット端末として機能するようになったのは韓国も日本も2000年頃だったと記憶しているが、私と同年代の日本人男性は「携帯メールなんて女子高校生がやるもの」などと言っていたような気がする。

 当時は韓国に興味をもっている日本人は目立たなかった。日本の男性がうかつに「韓国が好きだ」などというと、いかがわしいキーセン観光を連想する人がまだ多かったので、顕在化していなかったのかもしれない。

 ウォンビンと深田恭子主演の日韓合作ドラマ『フレンズ』の放送は2002年。その数年後の冬ソナやチャングムなどのドラマの大ヒットなど誰も想像していない。しかし、日本人の韓国渡航者はどんどん増えていて、1999年にはハワイを抜き、日本人の海外渡航先第1位(年間200万人超)になっていた。

韓国への日本人渡航者の推移。97年、香港が中国に返還され人気急落。代わりに韓国が脚光を浴びる。不景気が慢性化していることもあり、安・近・短の旅行地が選好された。拙著『一気にわかる朝鮮半島』(池田書店)より

 新大久保はすでにコリアンタウン化していたが、職安通り沿いとその脇道数十メートルの範囲でしかなかった。留学時代、私はチャジャンミョンが食べたくなり、当時住んでいた埼玉県の志木から電車に乗って出かけたことがある。90年代後半、職安通りの韓国料理店の主要顧客は韓国クラブのホステスさんだったような気がする。職安通りの裏手はまだラブホテル街然としていて、とても健全とは言えなかった。韓国料理店がその北方向の大久保通りまで進出し、今のように若い女性であふれる街になるなどまったく想像できなかった。