大ヒットロマンス史劇『赤い袖先』でも印象深い終盤、ジュノ2PM)が演じる王イ・サンを哀感が残るタッチで描いていた。特にイ・サンが、すべてを忘れたつもりで生きていく覚悟が強く感じられた。

 ところで、実際のイ・サンは国王として、どのような事業を行い、政治的業績を残したのだろうか。(以下、一部ネタバレを含みます)

■『赤い袖先』で描かれなかったイ・サンの人生、名君が行った偉大な事業とは?

 イ・サンは宜嬪ソン氏を決して忘れることはできなかった。彼女は国王が生涯をかけて愛し抜いた女性だ。イ・サンも必死になって政務に没頭したが、人間の情感を突き詰めれば、結局は彼も宜嬪ソン氏を忘れたままでは最後まで生きられなかった。

 そのことが実感としてしみじみわかったのが、『赤い袖先』のクライマックスであった。

 史実を見ると、1786年9月14日に宜嬪ソン氏が亡くなり、2カ月後に彼女の墓が文孝(ムニョ)世子の墓の横につくられた。本来なら、側室と世子の墓が並ぶことは異例なのだが、そこまでしてあげたいというのがイ・サンの心情であったことだろう。

 彼は世子と最愛の人を同じ年になくし、とてつもない喪失感を抱えたまま政務に励んだ。成し遂げた業績は際立っており、政権を安定させたイ・サンは、1789年から念願だった父・思悼(サド)世子の追悼事業に取り組んだ。

 まず、楊州(ヤンジュ)にあった父の陵墓を水原(スウォン/都の漢陽〔ハニャン/現在のソウル〕から南25キロに位置する都市)に移した。風水の観点から陵墓の最適地だったからである。こうして顕隆園(ヒョンニュンウォン)が整備された。その名前には「顕父に隆盛で報いる」という思いが込められていた(今は隆健陵〔ユンゴンヌン〕と称されている)。

 米びつで餓死するという衝撃的な死を遂げた亡父を慕う気持ちはますます強くなり、イ・サンは顕隆園に何度も出かけた。その行幸に動員された随行員や馬の規模は莫大だった。多いときは6000人と1400頭の馬がイ・サンに従ったという。その大規模な行列は語り草になるほどであった。

 そのように顕隆園にひんぱんに行くうちに、イ・サンは水原に本格的な都市城郭をつくろうと考えた。その構想のもとで生まれたのが華城(ファソン)であり、現在は世界遺産に指定されている。