韓国の古道である鳥嶺古道を歩くことにした。ソウルから高速バスで忠州へ。そこから路線バスで水安堡温泉。最後はタクシーを使い、古道の入口に着いた。
車こそ乗り入れることができないものの、かなり整備された古道だった。アスファルトではなく、土色の素材で固められた道で、幅は十分に車が通行できる広さがあった。しかしそこそこ急な道である。20分ほど登ると、第三関門に出た。
■韓国の古道、鳥嶺古道の旅で選んだルートは?
鳥嶺古道には第一から第三の関門があった。なぜ最初に第三関門? それは僕が意図したルートでもあった。
この旅では朝鮮通信使の道を辿ってみようと思っていたのだ。
朝鮮通信使──。日本の室町時代から江戸時代にかけ、朝鮮から日本にやってきた使節団である。この使節団は、表向きは日本の将軍を祝賀することだった。しかしそこには日本と韓国の政治的な思惑が潜んでいる。室町時代の朝鮮通信使は、倭寇対策を両国で擦り合わせることが目的だったといわれる。倭寇は日本から韓国にかけての海を舞台に暗躍した海賊集団である。
その後は日本の朝鮮出兵が暗い影を落とす。日本にやってきた朝鮮通信使は、豊臣秀吉が朝鮮に向けて兵を挙げるかどうかを見極めるスパイ活動を担ったこともあった。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の話は後述する。この戦乱がすぎ、日本は江戸時代に入る。江戸幕府は鎖国政策に走っていくが、朝鮮と琉球はその枠組みからはずされた。つまり朝鮮との国交は維持されたのだ。江戸時代、12回、朝鮮通信使は日本にやってきた。一般に朝鮮通信使というと、江戸時代に日本にやってきた使節団を指すことが多い。
朝鮮通信使といっても、数人の使節団がやってきたというレベルではなかった。多いときで500人近くになった。
彼らはまずソウルから徒歩で釜山に進む。そこから船に乗って対馬。対馬からは藩の案内係や警護兵など1500人ほどが加わり、瀬戸内海を船で大阪に向かう。一行は淀川を遡り伏見へ。そこから京都を経て、江戸まで徒歩で向かった。往復で8ヵ月もかかったという。
ソウルを発った朝鮮通信使は鳥嶺古道を歩いた。そこを辿ろうとしたわけだから、当然、ソウルから南下していくルートになる。
最初に目にするのは第三関門である。
門に近づいていくと、左手に幼い顔立ちの若者の像があった。科挙の試験に向かう若者の像だという。
朝鮮は中国に倣って科挙制度を導入していた。いまの日本でいえば国家公務員試験である。朝鮮の南部に生まれた優秀な若者は、この鳥嶺古道を歩いてソウルに向かったわけだ。その峠が第三関門だった。ここでソウルの方向を眺め、「頑張るぞ」と誓ったのだろう。そこに記念を像を建てたわけだ。