いまの韓国で鳥嶺古道というと、「科挙の道でしょ?」という人が多い。さまざまなサイトでも科挙の試験にむかった道として紹介されている。
科挙に向かったのは南部出身の若者だから、当然、峠に向かって第一関門から第三関門というルートになる。朝鮮通信使の道を辿るという僕の発想とは逆になるのだ。
もうひとつの理由は豊臣秀吉の朝鮮出兵だった。半島に渡った豊臣秀吉軍はソウルに向かって進軍していった。その兵士たちが歩いた道も鳥嶺古道だった。
豊臣軍の朝鮮出兵は2回行われている。1回目が文禄の役、2回目が慶長の役と日本では呼ばれている。文禄の役は1593年に休戦が成立するが、その後につくられたのが鳥嶺古道の関門だった。いまの第二関門である。その後、第一関門、第三関門がつくられる。この関門は、豊臣軍の侵攻に備えてつくられた楼閣だった。豊臣軍は南から攻めてくるわけで、古道の南側から北側にむけて、第一関門から第三関門がつづくことになる。
つまり鳥嶺古道の施設は南側から登ってくる人を想定してつくられていた。
そこを逆向きに進む。その結果、僕は古道探しに苦労することになる。