韓国時代劇の人気作『青春ウォルダム 呪われた王宮』では、端整な顔立ちで高貴な雰囲気を持ったパク・ヒョンシクが世子(セジャ)のイ・ファンに扮していた。イ・ファンは政治闘争の中で常に命を狙われていた。そういう危うさが世子にはつきまとっていて、史実の朝鮮王朝でも悲劇的な死を迎えた若者たちがいた。それが、「悲劇の3大世子」である。

■朝鮮王朝「悲劇の3大世子」とは?せっかく世子に選ばれたのに結局は国王になれなかった王子がとても多かった

 朝鮮王朝で世子は次代の国王候補であり、王朝のナンバー2だ。それだけ重要な立場だったので、権力闘争に巻き込まれる危険性があった。朝鮮王朝の実態をわかりやすく解説した歴史エッセイ『謎解き!朝鮮王朝 宮廷ミステリー 韓国時代劇の「なぜ?」を解明する』では、象徴的な世子をたくさん紹介している。それを参考にして「悲劇の3大世子」を選んでみよう。

●悲劇の3大世子「毒殺説」昭顕世子(ソヒョンセジャ)

 16代王・仁祖(インジョ)の長男で1612年に生まれた。1637年1月に朝鮮王朝が清国に降伏したとき、清国の都・瀋陽(しんよう)に連行されて人質になった。以後、進んだ文明に触れて大きな影響を受けた。1645年、ようやく母国に戻ることができたが、清国への憎悪を燃やした父と対立する事態に陥った。

 2か月後、昭顕世子は急死した。遺体は全身がどす黒く変色していたと『朝鮮王朝実録』に記されている。それゆえ、「清国に感化された我が子に脅威を抱いた仁祖が、毒を盛ったのではないか」と推測されている。

●悲劇の3大世子「壮絶な餓死」思悼世子(サドセジャ)

 21代王・英祖(ヨンジョ)の二男で1735年に生まれた。幼少期よりずば抜けた頭脳を持っていた。10歳にして政治の表舞台に立ち、最大派閥の老論(ノロン)派を批判してしまった。以後、老論派から様々な妨害工作を受けるようになった。また、厳格な父親から絶え間ない重圧と叱責を受け続け、徐々に精神が病んでいった。本人も酒癖が悪くて家臣に暴力をふるったことが良くなかった。

 1762年、老論派の工作によって誤った情報を伝えられた英祖は、激怒して思悼世子を米びつに閉じ込めてしまった。最終的には餓えのために絶命。遺された男児が、後年に名君として称賛されたイ・サンこと、22代王・正祖(チョンジョ)である。