■関ヶ原の戦いの中心人物・石田三成の子は……

石田三成

子供たちの扱いをみると、家康との仲もそこまで悪くなかったんじゃないかと思わせる石田三成

画像:東京大学史料編纂所蔵/宇治主水, Public domain, via Wikimedia Commons

 また、大河『どうする家康』で家康と対立、関ヶ原の戦いに雪崩れ込んだ石田三成(演・中村七之助)の子供たちの「その後」も奇妙な展開だった。

 

 ご存じのとおり関ヶ原では三成が事実上率いる西軍は半日もかからず壊滅。いったんは戦場を落ち延びた三成だが、落ち武者狩りで捕縛され、後に京都・六条河原で斬首された。なお、それ以前に居城の佐和山城も落城し、三成の父や妻たちは自刃している。

 

 しかし、三成の長男・重家と次男・重成は西軍の人質として大阪城にいたのだが(注3)、それぞれ手引きされて城を脱出。重家は京都の寺で僧侶に、重成は若狭(現在の福井県)を経由して海路、津軽藩(現在の青森県)まで逃れたという。この時、重家が12~15歳、重成が10~11歳と推定される。

注3/関ヶ原という大きな現場を任されているのに人質を取られるという石田三成の微妙な中間管理職風味を感じさせる逸話(泣)

 

 当然、それぞれ追手がかかっておかしくないのだが、まず兄の重家は織田家や豊臣家とゆかりの深い京都・妙心寺から除名嘆願が出て「まだ若いからね……」と家康直々にお構いなしと決定。しかも、孫の代には家康の次男・結城(松平)秀康の開いた越前松平家の分家に仕えることとなる(注4)

注4/結城秀康の次男(つまり家康の孫)で、越前松平家(北庄あるいは福井藩)三代藩主・松平忠昌がもともと領していた越後高田藩。忠昌の次の藩主は秀康の長男の子、光長。ややこしい。なお、石田三成の直系十五代目当主である石田秀雄氏の証言に拠る。

 

■名前を変えて津軽家の家老職にまで出世

津軽為信

実は隠れて豊臣秀吉を祀っていたぐらい豊臣シンパな津軽為信

画像: Public domain, via Wikimedia Commons

 一方、関ヶ原の戦いの際、豊臣秀頼の小姓を務めていた三成の次男・重成は、小姓仲間の津軽信建(弘前藩祖・為信の長男)に匿われ、津軽へと脱出。その後、姓を杉山と改め隠棲していたが、妹の辰姫が二代藩主・信枚に嫁いだり、息子が信枚の娘を娶ったりと津軽家と密な関係となる。

 

 結局、息子・吉成の代には正式に弘前藩の重臣となり、代々、家老職などを務める名門として、幕末まで命脈を保った。なお、津軽家独自の忍者集団「早道之者(はやみちのもの)を代々統率したのも、この石田改め杉山家だっという説もある。

 

 忍者の話が出たところで、戦国一有名な忍者集団「真田十勇士」を率いたヒーローとして描かれることの多い、真田”幸村”こと信繁。豊臣政権時代から何度となく徳川勢を翻弄し、大坂夏の陣では、あと一歩で家康の首を獲るところまで迫った名将と言われている。

 

 そんな”仇敵”真田信繁の子供たちなら、家康に根絶やしにされているはず──と思うだろうが、調べてみると意外や意外なエピソードがあった。