■戦国一の“くわせもの”大名が真田信繁の子を……
真田信繁の子としては、嫡男の大助こと幸昌が有名だが、大阪落城時に秀頼に殉死。戦後、生き残った男児は次男の大八(3歳)と信繁戦死の2カ月後に誕生した左次郎の二人。しかも、大八の母は関ヶ原西軍の名称・大谷刑部(吉継)の娘、佐次郎の母は豊臣秀次の娘と、徳川方としては二重三重に生かしておけない血筋のはずだったが……。
まず、次男・大八の命運についてカギを握るのが戦国一のくわせもの大名、東北の独眼竜こと伊達政宗。実は政宗の謀臣・片倉景綱の嫡男、重長が大坂夏の陣の際に、信繁の娘・阿梅(おうめ)を保護し、後に妻とした。その際一緒に弟の大八も伊達家が匿ったというわけだ。
そして、ここからが謀略が得意な真田家と伊達家らしいエピソードだが、25年ほど後、大八は真田四郎兵衛守信として正式に仙台伊達藩士として登用されることに。当然、徳川幕府からは、
「え、伊達さん、あのにっくき真田の倅を召し抱えるってどういうつもり(怒)?」
と詰問状が飛びまくる。だが、伊達家は、
「何言ってんすか。大八君はかわいそうに幼い頃、京都で頭に石ぶつけて亡くなってますよ」(注5)
と空とぼけ、別の系譜(信繁の叔父・真田信伊)の真田だと言い張ったという。その後、一応、幕府に配慮したのか一時、片倉姓に改名するものの、再び、真田に戻り、幕末さらには今日まで、仙台真田家として名を残している(注6)。
注5/高野山に残る文書には「5月5日、印字打ち(≒石合戦)をして死亡」と書いてあるようだが、1612年に九度山で生まれた幼児が石合戦をするのか怪しい話だ。これ自体が先読みして作らせておいた偽文書の可能性も(伊達ならやるねw)
注6/もちろん、実際に真田信伊の家系で真田信繁の直系ではないという説もある。
■豊臣家+真田家の血を引く信繁の三男は……
一方、父・真田信繁、母・豊臣秀次の娘と、徳川家の”怨敵”の血筋をダブルで引いてしまった三男・左次郎の運命やいかに? 当然、草の根分けても探し出し殺されていてもおかしくないのだが、なぜかこちらも盟約を保っている。「戦国の常識」もけっこうルールがガバガバのようだ。
こちらでカギを握るのは同じ秀次の娘(隆清院)を母とする姉の「なお」。大阪落城後、いったんは京都にいた義理の祖母(つまり秀次の母)のもとに隠れるものの、残党狩りが厳しくなったため、左次郎を生んだ直後の母を置いて各地を転々と逃亡。紆余曲折の末、「あの日本一の兵、真田信繁の娘」というブランドを見初められ、当時としては異例の22歳で後の出羽亀田藩二代藩主・岩城宣隆の側室となる。
ちなみに、この亀田藩岩城家、実は関ヶ原で石田三成寄りとされた名門・佐竹家の一門。津軽家といい、どうも旧・豊臣シンパのネットワークがあったように見受けられる。いずれにしても、この縁で京都に隠棲していた左次郎も岩城家に召し抱えられることに。ただし、喧嘩上等な伊達家と違い、岩城家はまだ常識があったのか、真田ではなく、母方の三好姓を取り、三好左馬之介幸信と名乗ったという(それはそれでどうかと思う点もあるのだが……)。
かくして、明智、石田、真田と、戦国時代に惜しくも“敗者”となった武将の子供たちも、意外や意外、しぶとく生き残っていることがわかった。むしろ、そんな状況でもサバイブする能力と運こそ、名将の血筋を引き継いでいる証拠なのかもしれない。実はあなたの周りにも、敗れ去った戦国武将の末裔が潜んでいるかも?
『明智家の末裔たち』明智憲三郎・著/河出書房新社
『石田三成伝』中野等・著/吉川弘文館
『真田三代ー幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る』平山優・著/PHP新書
『真田四代と信繁』丸島和洋・著/平凡社新書
『真田幸村のすべて』小林計一郎・著/新人物往来社