ユダヤ人だとライバル新聞が暴露

 

ユダヤ人狩りの様子

過激な反ユダヤ主義で支持を集めたナチスにとりハヌッセンの出自は大醜聞だった。

画像:Public Domain via Wikimedia Common

 きっかけはナチスと対立する共産党寄りの日刊紙「ベルリンの朝(Berlin am Morgen)だった。

 

 ハヌッセンによるナチス寄りの記事や「ヒトラー首相予言」に痛烈な批判記事が同紙に掲載され、反論するハヌッセンと、予言を巡って激烈なバトルが繰り広げられた。

 

 さらに同紙は、ハヌッセン批判キャンペーンも展開。そしてついに、1932年8月、ハヌッセンがひた隠しにしていた事実を同紙がすっぱ抜く

 

 エリック・ヤン・ハヌッセンは、ユダヤ人である、と──。

 

 事実、記事のとおりでハヌッセンの本名はヘルシュハイム・シュタインシュナイダー。オーストリア=ハンガリー帝国の片田舎から流れてきた旅芸人の息子で、デンマーク貴族の末裔という経歴は真っ赤なウソだったのだ。

 

苦しい言い訳と切れない理由

 

演説するヒトラー
快進撃を続けるナチスだが、実情は火の車だった。 画像:Bundesarchiv, Bild 119-11-19-12 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE , via Wikimedia Commons

 狂信的な反ユダヤ主義でのし上がったヒトラーの霊的アドバイザーが、当のユダヤ人だった──とんでもないスキャンダルに騒然となったが、ナチスにはハヌッセンを絶対に切れない理由があった。

 

 1932年7月の国政選挙で与党第一党になり、首相就任を狙って政治工作を繰り広げていたナチス党は、実は深刻な資金不足に陥っていた。しかも、党の分裂の危機もあり、ヒトラー自身も精神的に追い込まれていたという。

 

 そんな状況で、億万長者のナチス支持者で、ヒトラーの「霊的アドバイザー」であるハヌッセンを切り捨てるわけにはいかず、

 

デンマーク貴族の両親が事故死した後、親切なユダヤ人夫婦に育てられた」

 

と、ハヌッセンの少女マンガばりの言い逃れに乗るしかなかったのだ。

 

 

■相次ぎ予言は的中するが…

 

エリック・ヤン・ハヌッセン
オカルト宮殿の降霊会の1シーンと言われる写真。写真中央がハヌッセン。

 首の皮一枚で「第三帝国の予言者」の地位を守ったハヌッセン。翌1933年1月1日には「月末までにヒトラーが首相に」と紙面で発表。

 

 そしてハヌッセンの予言どおり、1月29日、ヒトラーは首相に任命され、翌30日にヒトラー内閣が誕生するのだ。

 

 勢いに乗ったハヌッセンは2月、通称「オカルト宮殿」というド派手な新居を建築。そのお披露目パーティーの席上、彼はトランス状態になりこう叫んだ。

 

「大きな建物が……真っ赤な炎が見える……」

 

 そして、驚くべきことにその翌晩、予言どおり国会議事堂放火事件が発生したのだ。しかも、この3日前にハヌッセンは雑誌上でも「国会議事堂が焼け落ちる」との予言を掲載していた。

 

ドイツ国会議事堂放火事件の現場

焼け落ちた国会議事堂内部。当初から事件の背後にきな臭い噂が……。

画像:Bundesarchiv, Bild 102-14367 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE , via Wikimedia Commons

 多くの人々は彼の千里眼に恐れ慄いたのだが、この事件の約1カ月後、ハヌッセンは妻とともにベルリン郊外で無残な射殺体として発見されたのだ。