韓国の鳥嶺古道を歩き終えた。朝鮮通信使はさらに釜山まで歩き、そこから船に乗って日本に向かった。その船が最初に着いたのが対馬だった。
朝鮮通信使といったとき、江戸時代に日本にやってきた12回を指すことが多い。両国の政情が安定し、日本の将軍を表敬訪問するという本来の形が整ったからだろうか。
■朝鮮通信使しか通れなかった道、滋賀県に残る朝鮮街道を歩いてみる
江戸幕府は成立してしばらくすると鎖国政策に傾いていく。しかしそこから朝鮮と琉球ははずされる。国交を保つのだ。そして朝鮮通信使を受け入れる事業の大筋は江戸幕府が担った。幕府は特定の藩が独自に朝鮮とかかわることを嫌った。そのなかで力をつけていくことを警戒したためといわれる。
幕府と朝鮮との交渉役は対馬藩だった。まず幕府が対馬藩を通して書状を送るところからはじまった。幕府は新しい将軍になったことを伝え、朝鮮側は「じゃあ、行ってあげるか」と応ずる。両国の面子を保つためのやりとりだった。
対馬藩は朝鮮通信使に対し、案内役や警護兵、約1500人をつけ、大阪に向かって瀬戸内海を進むことになる。大阪から淀川を遡り、伏見から京都へ。そこから歩いて江戸に向かった。
幕府は朝鮮通信使を手厚く受け入れた。500人にもなる団体の宿泊施設は寺しかなかった。そこで食事も出すのだが、肉食系の朝鮮族に精進料理というわけにはいかない。幕府の指示で裏口から肉類を搬入したという。
幕府の朝鮮通信使への接待のひとつが道だった。朝鮮通信使しか通ることができない道を用意したのだ。それが朝鮮人街道だった。鳥嶺古道を歩いた流れで、この古道も歩いてみることにした。
朝鮮人街道は、滋賀県の野洲から琵琶湖の東側を進み、彦根までの41.2キロの道だった。
東海道線の野洲駅で降り、線路を越えて旧中山道の方向に向かう。このあたりの中山道は新道と旧道があった。新道が多くの車が通る中山道である。旧道は昔からの道で、道幅も広くない。朝鮮人街道は、その旧道からさらに分岐する道だった。
しばらく進むと、野洲小学校に出た。少し先を見ると道路の修復工事をしている場所があった。
「あのあたり?」
そこは道の分岐点だった。標識が出ていた。右側が旧中山道。左側が朝鮮人街道。標識では旧中山道を中山道として書かれていたが。
周辺は住宅街である。そのなかにのびる朝鮮人街道を歩きはじめた。