いまは朝鮮人街道と呼ばれているが、この道を整備したのは織田信長だった。信長は旧中山道から少し離れた場所に安土城を築いた。岐阜から京都に向かうとき、安土城を経由する道をつくった。そこを通って上洛したわけだ。

 この道の存在感を高めたのは徳川家康だった。関ケ原の戦いに勝利した家康は、この道を通って京都に向かった。以来、この街道は縁起のいい道とされた。三代将軍の家光も京都に行くときはこの道を通り、一般大名が通ることを禁じた。参勤交代で江戸に向かう大名の一行は旧中山道を使った。

 江戸幕府はこの道を朝鮮通信使のためのものとした。

「大名ですら通ることができない道をあなた方に提供します」

 と恩を売ったわけだ。しかし朝鮮通信使にしたらピンとこない話である。この道が縁起がいい道といわれても、それは江戸幕府側の発想でああって、朝鮮とは無縁である。

 朝鮮通信使は新しい将軍に代わったときにやってくるから、不定期の訪問団である。やってきた年をみると、十数年に1回といった感覚だろうか。そのときだけの道である。

 野洲駅周辺に広がる住宅街のなかを進んだ。脇を祇王井川が流れている道だからわかりやすい。祇王井川は野洲小学校あたりではコンクリートに固められた用水のような趣だったが、しだいにその幅が広くなり、川の風格をもちはじめた。

 野洲駅から歩きはじめてから1時間近くがたっていた。突然、朝鮮人街道がなくなってしまった。先にあるのはJRの野洲駅の車両基地だった。祇王井川もその下を流れる暗渠になってしまった。朝鮮人街道探しがはじまった。