鳥嶺古道を歩きはじめた。この道をソウルから釜山に向けて朝鮮通信使も歩いた。朝鮮通信使というのは、日本の室町時代から江戸時代にかけ、朝鮮から日本にやってきた使節団である。その数は500人にもなる大団体だった。ソウルから日本の江戸往復で8ヵ月もかかったという。
■朝鮮通信使の道を辿って、鳥嶺古道を歩いてみると……
鳥嶺古道には第一関門から第三関門まで3つの関門があった。関門というと、そこを往来する人々をチェックする関所のように思うかもしれない。しかし目的は違った。豊臣秀吉の朝鮮への侵攻に備えてつくられたものだった。関門を眺めると、韓国の時代劇によく登場する楼閣だった。
南から攻めあがる豊臣軍を迎え撃つ関門だから、当然、南から第一関門、第二関門とつづく。しかし僕は最後の第三関門から歩きはじめた。
僕の目的は、朝鮮通信使の道を辿ってみることだった。当然、ソウルから南下していく道になる。
第三関門をくぐり、整備された古道をくだりはじめた。歩きながら、
「このまま第一関門まで行ってしまうのだろうか」
という不安が頭をもたげてくる。道はあまりに整備されていた。許可を得れば車も通ることができる道なのだ。僕のなかの古道のイメージは山道だった。
5分ほどくだっただろうか。道は沢の小さな流れを越えた。ふと見ると、沢に沿って山道がのびている。整備された古道からそれていく感じだ。
「これが本来の古道かもしれない」
そう思ったが、案内板はなにもない。勝手にくだっていくと、古道から離れてしまうかもしれない。
少し迷った。山道をくだってみることにした。途中で消えてしまうかもしれない。あるいは整備された古道から離れていってしまう……。そうなったら戻るつもりでいた。
山道を10分ほどくだった。未舗装だが、踏み固められた道で歩きやすい。鳥の声も聞こえてくる。僕のなかの古道歩きのイメージだった。きっとこれが本来の古道……そう思いたかった。
さらにくだると、唐突に整備された古道に出た。脇に案内板があった。そこに書かれた韓国語にスマホをあてて翻訳してみると、「昔の道」という日本語が表示された。
僕の勘があたった。沢に沿った山道が、本来の古道だったのだ。
しかしなぜ、この地点に案内板が立てられるのだろうか。やはり第一関門から第三関門まで坂道をのぼる人たちを想定しているのだろう。韓国ではこの古道は科挙の道として知られている。試験を受けるためにソウルに向かう道なのだ。たしかに試験が終われば、この道を戻っただろうが、人のイメージは概して「試験を受けにいく道」に傾いていくものだ。僕はその道を逆方向に歩いているから、こういうことになってしまうのだろう。